冬が来る

またこの季節が来た。

ハロウィンという日本人には全く関係のない大イベントが終わった。

なんとなく、ちょっとハロウィンを調べてみた。

起源はケルト人が秋の収穫を祝うお祭りだったらしい。そこからなんやかんやで、新しい年を迎える前に悪霊や魔女などを追い出すためのイベントに大変化を遂げたと書いてある。

そのなんやかんやも意味がわからないが、もっと意味がわからないのはトリックオアトリートの文化だ。

 


いたずらされたくないなら、お菓子ちょうだい。

 


え?

どう考えてもおかしい。

悪魔や魔女を追い出すためのイベントで、参加者達がお互いにいたずらで脅してお菓子を奪うという、悪魔になりきった立ち回りをしてるってことなのか?

もはや呼び込んでるまであるこのイベントに思考がついていけなくなって行く。

 


なんとなく成立していれば起源や意味など全く持って無視できる大胆さが、自分にも兼ね備えられていたらきっと仮装をしてインスタに投稿できる人種になれていたと思うと、なんとも言えない感情になる。

 


きっとインスタグラマー達の先祖を辿って行き着く先は、ハロウィンの起源をなんやかんやさせた人たちなんだろうなと勝手にこじつけてしまっている。

 


が、それは本題ではない。

ハロウィンが終わるということは、秋が終わるということだ。金木犀がストーリーに現れることももうない。キノコ帝国の金木犀の夜がYouTubeのおすすめに上がってきて、コメント欄の最新を選択し、みんな季節と匂いに酔っているのを豆電球の下で眺めることがもうないというわけだ。

 


つまりまたこの季節がやってきた、冬だ。

クリスマスツリーが店頭に現れ、有線ではクリスマスソングが流れるその季節だ。

 


暑さが苦手で、汗が嫌いで、だから夏が嫌いなのは分かる。

でもどうして冬が好きなのだろう。

サンタさんが枕元に頼んだものとはちょっと違う物を置いてくれて、反発したり、それはそれでいいかと満足する儀式ももうない。

年が明けるとなぜかみんな現金をくれる年でもない。

1月1日が1番現金が動く年だと思う。でももうお年玉ですら電子マネーになってしまうのかなと思うといくら貰えたかな、みたいな、貰った人の前ですぐ開けるのは失礼だよな、みたいな、そんなのももう無くなってしまう気がして寂しい。

別に雪だって、子供の頃に飽きるほど見てきたし、なんなら東京には降らない。

降っても今更不便なだけだ。

 


じゃあなんで冬が好きなんだろう。

イルミネーションだってただのLEDだし、確かに遠目は綺麗だが、見に行くのは億劫だなと思う。

歩いてる街に偶然飾り付けされてる景色は確かに綺麗だが、別にだから冬が好きかと言われるとなんとも言えない。

 


じゃあなんで冬が好きなんだろう。

わからないかもしれないし、ただ冬以外を否定したいだけかもしれない。冬を肯定したいだけかもしれない。理由なんてないのかもしれない。

 


生きてると、そんなことばかりだなぁと時々感じる。

嫌と言いたいだけだったり、意地になってどうしてもそれしか良く見えなくなったり、理由なんてないけど感情が揺れ動いたり。

 


突き詰めない、ぼんやりと漠然としている状態を好むことも、好んで行きたい。

 


今ふと思い出した

ハロウィンだ。

トリックオアトリートって、そう言えば最近あまり聞かないかもしれない。

Happy Halloween!の方が言う気もする。

そう言って、お菓子を交換するだけの暖かなイベントになってる気もする。

悪霊側になろうとしてる人なんて、いないんじゃないか。

もしかしてハロウィンは、秋の収穫を祝っていたあの頃に戻っているのだろうか。

 


だとすると、さっきはハロウィンをただ否定したいだけだったのかもしれない。

今はなんとなく、肯定したくなってきた。

 

八月二十五日

こんばんは。四畳半に住む大学生です。


今日の日記

 

汚れたものを洗濯機で洗い、またそれを汚して、洗濯機に閉じ込める。

フライパンを使って、洗って、また使って、

立ち上がって、座って、立ち上がって、

 

繰り返しと言える行動に意味をもたらすためには、循環というキーワードは欠かせない。

そうやって日々の行動に、勝手のいい言葉を当てはめることで、意味を加えたり解釈したりする。

 

ニヒリズムなのかと言うくらい無色透明な日もあるし、この部屋こそがユートピア!と叫びたい日だってあり、それもまた繰り返し、いや、循環している。

またそうやって、今日が明日に変わっていく。

 

今日は、繋げていく。と呼びたい気分の日。

 

 

八月二十三日

初めまして、四畳半に住む大学生です。

今日の日記

毎日四畳半で暮らしていると、自分のための特別な空間に感じる日と、狭すぎて全てを破壊して、出来るだけ広い空間にしたい日が交互に繰り返されている気がする。
そんな時、きっと人間は素敵にしようと何かを想像し、創造して、そしてそれを破壊し、また振り出しに戻って生きているのだと無理矢理信じたりしている。

そんな事を考えながら日々過ごしていると、映画やアニメを見ていても内容を理解出来なくなっていく。何かのシーンをきっかけに別のことが頭の中で繰り広げられる。
気づいたら、もう取り返しのつかないところまで物語は進む。

とても厄介で悩ましい習性があるものだなと考えつつ、まあそれもそんなもんかと割り切るところから人生は始まるのかもしれない。
諦めが肝心なことは多い気もする。「期待しない」という表現の方が正しいかも知れない。自分の想像と現実のギャップが高揚や絶望を生む気はしているが、高揚の方が望ましいのは言うまでもない。なら、想像というか、理想というものは限りなく低く設定しておくのが良い。

でも、目標は高い方がいい。もう何が何だかわからない。意識の高さと低さが混在しているカオスの中で、それすらも全て諦めているくらいが、きっといい。

初投稿がこんなに意味のわからないものになっていいのだろうか。
書きたいものを書くことと、誰かに読んでもらうために書くものは全く違う。
今自分はどっちの感情が優勢か、難しいところではあるが読んでくれることが嬉しいことには変わりないんじゃないか。

この記事を一部でも、一人でも読んでくれた人がいたら、とても喜ばしい。